2009年1月7日

ニーチェ「キリスト教は邪教です!」摘菜収・訳

だいたいこういうのにはアカデミズムの専門家方面からクレームがつくのだろうと想像しますが、翻訳は翻訳であり<解釈>なのだから、複数あれば良いだけです。どういう目的を持った人のための翻訳かということでも違ってきて良いはずです。原書で読む学生や研究者が参考のために読む翻訳と一般の人が教養のために読むものとでは、翻訳態度も言葉遣いも違っていて当然だろうと思います。

あれこれ言うよりこれはとにかく読めばいい本です。

特に面白いところの一部を引用します。

 キリスト教は実にヨーロッパ的な運動です。

 要するに、あらゆる種類のガラクタが集まってできている。言ってみればキリスト教は、「人間のダメな部分」の集合体なのですね。キリスト教によって、社会のクズやガラクタが権力にありつこうとするわけです。

 キリスト教が発生したのは、多くの人が考えているように、高貴な古代文明が腐敗したからではありません。現代でも、いまだにそんな説を唱えている学者もいますが、お話になりません。

 本当はこういうことです。
 
 頭の悪い下層民たちがキリスト教に染まっていった時代でも、ローマ帝国の中にはそれとは正反対の、高貴で、美しく、成熟したタイプの人間がおりました。

 しかし、多数者が支配するようになってしまった。キリスト教と同じ本能を持っている民主主義が勝利を占めてしまったのです。

 それではなぜ、不健康なキリスト教が勝利を占めたのか。

 それはキリスト教が「国民的」ではなかったからです。

 キリスト教は一つの民族だけが信じる宗教ではなくて、不健康でろくでもないあらゆる種類のものに取りつく宗教なのです。それで、いたるところにたくさんの同盟者を持つことができたのですね。

 キリスト教は健康な人間に対する、不健康な人間の恨みを基本にしています。
 
 美しいもの、誇りを持っているもの、気力があるもの、そういうものを見たり聞いたりすることが、彼らにとっては苦痛なのです。

 私はパウロが言った貴重な言葉を思い出します。

「神は世の中の弱いものを、世の中の愚かな者を、軽く見られている者を、お選びになる」

 まさに、これがキリスト教の核心なのです。これによってキリスト教は勝利しました。

 私たちは、「十字架にかかった神」という象徴の後ろに隠された恐ろしい目的に気づかなければなりません。「十字架にかかるものは、すべて神のような存在である。われわれは十字架にかかる。それなので、われわれのみが神的である」というカラクリ。

 キリスト教が高貴な思想を滅ぼしたのは、人類最大の不幸でした。

こういっちゃなんですが、韓国でキリスト教が人気な理由が少し理解できるような気もしますね。

しかし白人文明もこれで成り立っているので、この後彼らが没落に向かっ行くとき「キリスト教の本質」が牙をむく可能性が高いのでいっそう注意しなければならないと思います。

ニーチェは、聖書を読むときには手が穢れるので手袋をはめて聖書にさわるようにしていると言っていますが、キリスト教が汚らわしい一番の理由は「キリスト教には聖なる目的が欠けている」ことだといいます。

そして古代インドの「マヌの法典」を引き合いに出します。

『マヌ法典』には『聖書』を読むときのイヤな感じはありません。『聖書』と比べるのは失礼なほど、『マヌ法典』は精神的ですばらしい作品です。・・・・・

 どのページを開いてみても、高貴な価値が、完全であるという感情が、人生への喜びが、勝ち誇った幸福感が、まるで太陽のように輝いています。

 キリスト教が汚いやり方で否定的に扱っている、「生殖」「女性」「結婚」といったものは、『マヌ法典』では真剣に、おそれ敬いながら、愛と信頼を持って取り扱われています。

 「みだらな行為を防ぐためにも、男は妻を持ち、女は夫を持たなければならない。欲望に身を焦がすよりは、結婚したほうがましだから」(コリント前書第七章二節、九節)

 このような卑劣な言葉を含んでいる『聖書』を、子供や女性に読ませるのはいかがなものでしょうか。

 キリスト教では処女が妊娠するそうです。人類の誕生がキリスト教化されているのですね。

 要するに、妊娠という大切なものが汚されているわけです。

 キリスト教徒であることは、人間として許されることなのでしょうか。

 『マヌ法典』はその正反対です。女性に対して、これほど多くの思いやりと好意が書かれている書物を私はあまり知りません。『マヌ法典』を書いた年老いた白髪の聖者たちは、女性に対する最大限の礼儀を心得ています。
 
「女の口、少女の胸、少年の祈り、犠牲の煙は常に清らかである」

他の場所にはこうあります。

「太陽の光、牝牛の影、大気、水、火、少女の息づかいよりも清らかなものはない」

最後にはこうあります。

「ヘソより上の身体の穴はすべて清らかだ。ヘソより下は清らかではない。少女の場合は全身が清らかだ」

・・・・

古代インド人ってけっこう炉利だったんですね。いや、それが健康な証拠?

「高貴な価値が、完全であるという感情が、人生への喜びが、勝ち誇った幸福感が、まるで太陽のように輝いています」というようなところをつかまえて、貧しい精神の現代日本人などが、「危険だ」とか言うかもしれません。

しかしそれをいうなら、アメリカの国家聖典の一部である『旧約聖書』はどうなの?ってことになります。ヨシュア記とかどういう言い訳をするんでしょうか。新約聖書に付属されていることも多い詩篇なども「神様どうか敵を倒してください、敵に復讐して下さい」という呪いの文章が連綿と続いています。

私は実は「呪い」をすることがありますが、呪いに詩篇を使ったこともあります。

「呪い」というのは効くこともあります。3年半ほど前に私が、タイ国家およびタイ族への「特別の呪い」をセットしてからタイは確実に崩壊に向かっています。もちろんこういう特別な場合は詩篇なんか使いません。

しかし、呪いというのは健康的なものではなく、身体にも良くないので、これ以上はもうしないことにしました。

本題のニーチェに戻ると、「キリスト教が邪教であること」の害悪は決して他人事ではない、ということがここでは重要です。(翻訳者は、われわれ現代の日本人も知らず知らずその害毒に侵されていると考えているようです)。

今日の私たちは、言葉にはできないほどの注意をして、自分を乗り越えなければなりません。なぜなら私たちは皆、劣悪なキリスト教の本能を体内に持っているからです。

ニーチェは古代の宗教が好きなようですが、キリスト教よりはイスラムの方がかなりマシだと考えていたようです。

しかし、ここで、キリスト教運動の指導者たちに論理的な思考力がなかったと考えるのは間違いです。彼らは非常に頭が良かった。彼らに欠けているのは、何かまったく別のものです。つまり、自然が彼らをなおざりにしてしまったのです。

 尊敬すべき、品位のある、清潔な本能という最低限のものを、自然は彼らに与えることを忘れてしまったのですね。

 ここだけの話ですが、彼らは一人前の男ですらありません。

 イスラム教はキリスト教をバカにしていますが、彼らにはその権利があります。なぜなら、イスラム教は男性を前提にしているからです。

 私たちはキリスト教に古代文明の収穫を奪われてしまいました。そしてその後、またもやイスラム文化の収穫を奪われたのです。

 スペインは、ローマやギリシャよりも、ドイツと血縁の近いところだと思いますが、かの地で栄えた驚嘆すべきイスラムの文化世界は、キリスト教の十字軍の騎士によって踏みにじられてしまいました。

 なぜ踏みにじられたのか、それは、イスラムの文化世界が、高貴な本能、男性の本能でできていたからです。また、イスラム教徒の生活が、とびきり洗練されていて、華麗であり、人生を肯定していたからです。

 十字軍の騎士たちは、むしろその前では頭を下げなければならない相手と戦いました。イスラムの文化に比べれば、十九世紀のドイツ文化ですら、きわめて貧弱で、遅れているものなのですから。

 もちろん、十字軍の目標は金品を収奪することです。東方の国はリッチでしたからね。

 遠慮せずに言わせてもらうと、十字軍とは、高級な海賊にすぎないのです。・・・・・・・

 実際、ドイツの貴族は高級文化の歴史にはほとんど姿を現しません。

 その理由は簡単。「キリスト教とアルコール」。これは腐敗する二つの大きな原因なのです。

 アラブ人とユダヤ人を前にする場合と同じように、イスラム教とキリスト教を前にすれば、選択の余地は絶対にないはず。・・・・・



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