2009年1月3日

呉善花氏著「韓流幻想」をKLの紀伊国屋で買って読んだ

せっかくクアラルンプールに来たので、一回ぐらいはKLCCを拝んでいこうと思い、Rapid KLクラナジャヤ線(以前のPutra LRT)に乗って出かけた。

KLCC(クアラルンプールシティセンター)というところは、マレーシア政府が外国人観光客にはKLでここだけ見て高い買い物をして帰ってほしいと思っているような場所。

特にどうということもないが、見たところ清潔で、ここだけにいれば先進国にいるような気分になることを目指して作られているところである。

(マレーシア政府は昨年あたりまでは、2020年にはマレーシアも先進国の仲間入りをすると豪語していたが、寝言のようなものであり、当然無理である。シンガポールさえ先進国とは呼ばれない。

彼らはまず、先進国というのは先進国クラブの会員のことであるということがわかっていない。そして先進国クラブの会員になるためには、その国に、尊敬に値する哲学、思想、自然科学などの業績がなければならない。

哲学思想の面で西欧国家は不当な優位にあるとはいえる。この世界の支配的文明が白人文明であることは否定できない。

だから、非白人国家の場合は、自然科学分野の人材や科学技術面で突出したものがなければ今の枠組みのなかで先進国の仲間入りをすることはできない。

日本の湯川秀樹博士が物理学の最先端の業績を残したのは、日本が「先進国」と呼ばれるようになる何十年も前のことである)。

有名なペトローナスツインタワーもここにある(当然外に出なければ見えないが)。このツインタワーは、日本から一度も出たことのないネトウヨさんたちも名前とイワレを知っているはずである。

今年は去年に比べると多少少なくなっているようだが、タイ人売春婦を連れたクズ白人も好んでうろうろするところ。

その場合、バンコクが東南アジアでは(シンガポールを除き)一番の先進地域で、タイ人が東南アジアでは(華人を除き)一番美人(=色白)だと信じていたタイ人は、ここを見てKLの「先進国」ぶりとマレー人の意外な色白さを知ってのけぞることになる。

ただしその「ランケー」(意趣返し。嫉妬の反動の、八つ当たりを含む復讐)は別の場所で別の相手に対して行われることになる。


いつもの喫茶店が混んでいる。それに今回は短期滞在で少ししか両替していないので、あまりお金がない。一杯10リンギもするコーヒーは飲む気にならない。

特にすることもないので、なんとなく4階の紀伊国屋書店に入った。

KLCCの紀伊国屋書店は、去年までは二つの売り場に分かれていた。日本語の本の売り場は3階の伊勢丹の中にあり、それ以外の本は4階にあった。空間の雰囲気も店員の接客態度もまったく違う世界になっていた。

マレー語には書物の文化と伝統がほとんどないので、4階の売り場(日本書以外)は必然的に英書が中心になる。

そうなるとほとんど不可避的に、傍若無人な白人たちが、ここは俺たちのための場所だとばかりにのし歩き、上客として尊重されもすることになり、全体にすさんだ空気になる。


日本でも、新宿の紀伊国屋の一階売り場に白人ツーリストが乗り込んで来ることがある。

大きな本屋の一番立派な場所には英書が当然あるはずだという頭でくるらしい。

そして、そこに日本書しかないことに驚き、当惑してうろうろしているのである。

そういう彼らの結論は、「日本は閉鎖的だ、グローバルスタンダードに反する、これは人種差別だ」である。


それはともかく、KLCC伊勢丹の中にあった日本書売り場は、(マンガ目当ての中国人が来てない限り)静かでしっとりした、落ち着ける小さな日本だった。

今年の10月に行った時、伊勢丹の日本書売り場がなくなっていた。その辺りの店員に聞くと4階の紀伊国屋に入ったという。

4階に行ってみると端のほうの一角が中国書売り場になっている。しかし、日本書は見当たらない。聞けば、そのさらに奥が日本書売り場になっている。

普通の客には気づかない別室のようなスペースで、日本書が目的で探している人間でなければ知りえないような場所。ほかの売り場よりは静かだが、伊勢丹の中にあったときのようなしっとりとした雰囲気はなくなっていた。

今回はとくに本を買いたかったわけではないが、日本書売り場の中を一回りし、なんとなく目に付いたこの本を値段も見ずに買ってしまった。500円くらいの文庫本が900円近い。

マレーシア人だとばかり思ったレジの女は、私が買い終わったあと他の客と普通の日本語で話していた。


ここまで余計なことを書いてきて指が痛くなってきたし、時間もあまりないので、この本の内容については次の機会に譲りたいと思う。

というか、私はいつも旅行の生活をしていて、本はほとんど読まないので、本の批評をするような見識はないのだ。

アメリカには「自分は聖書以外の本は一切読まない」というのを自慢にしている人がいるらしいが、私もどっちかといえばそれに近い正しい生活をしている。

ただ、一つだけ言えると思うのは、この本の目次だけ見て先入観を持たないほうが良いということ。拓殖大学教授という肩書きから変なレッテルを貼ったり色眼鏡で見たりするのも間違っている。

この本は、かなり中立的な立場で書かれた独立した批評であって、何かに媚びたりある勢力を当てにしたりしているような種類のものではない。

目次だけ見て「2ちゃんの書き込みのようなものだろう」と思ったら大間違いである。けっこう難しい本だった。

著者は文芸評論家だった。読んでいて、ああこれは文芸評論なんだ、と思った。同時に、ああこれが文芸評論なんだ、とも思った。

私はこの本を読んで、「文芸評論」というものの力、というか、可能性を、初めて具体的に知らされたような気がした。

文芸評論は人間が抱え得る諸問題の総合的な批評たりうるのだ。ということ。

ただ、私がもっている印象では、日本の、特に「左」の文芸評論は、何かひけらかそうとしているだけで、すでに確立しているものを肯定する力しかないように見える。

そこでは、「歴史修正主義は"絶対に"誤っている」という珍妙な「理論」がまかり通りかねない。彼らから学べることは、たとえば「まずデリダを読んでいなきゃいけないんだ」というようなことだけだったりするのではないか?

この本は全体的に見て文芸評論といえると思うが、日本の文芸評論のように狭い特殊な世界にとどまり、狭くすることで防衛しようとするようなところはまったくない。


話は変わってしまうが、私は昔、政治的な立場とは関係なく【戸坂潤】を愛読していたことがある。

しかし、この戸坂潤がなぜ、文芸および文芸評論にこだわるのか、ほんとうは良くわからなかった。

戸坂潤は文芸批評の理論は打ち出したと思うが、その適用は自分ではあまりやっていなかったように思う。

しかし、そのわりには文芸にこだわっていた。そのことは決して時代的歴史的な制約によるのではなく、理論的な理由のあることだったと思う。

私は呉善花氏のこの本を読んで、ようやくその理由が少しわかったような気がした。


日本語に関しては、私が気づいた限りで、助詞の使い方の明らかな誤りが一箇所あったと思う。しかし、外国人が書いているから変だと感じるということもある。

私が日本語についてあれこれ言える立場でないことはいうまでもない。

YouTubeに日本語で書き込みをして、「お前の日本語は変だ」と英語で書かれたこともある。

2ちゃん海外板でタイ批判をして、「日本語も変だし、タイを批判しているから、チョンコに違いない」とタイヲタのレッテルを貼られることもたびたびあった。

タイヲタ糞ウヨ(タイ偏愛者のネットウヨ)によれば、「チョンコは自分の国に王室や皇室がないからタイや日本を妬む」のだそうである。

つまり、タイヲタ糞ウヨにとっては、日本の皇室はタイ王室なんかと並べてもいいようなろくでもないものだということらしい。

彼らの精神は天井が低くて、「最高のもの」は一律に2メートルくらい上でしかないのかもしれない。



0 コメント:

コメントを投稿

ブログのコメント欄は匿名掲示板ではありません。

コメント投稿はあなたの「権利」ではなく、ブログ管理者が任意に与えている特別の「恩典」であることを、投稿の前にご確認ください。

コメントは、管理人のそのときどきの考えにより、内容に関係なく、専断的に削除することがあります。

匿名のコメント、IDのプロフィールに自身のサイトへのリンクがない方のコメントは、削除されやすくなります。古いコメントも削除する場合があります。

こちらに書くこともできます。
http://ibn-ibrahim.bbs.fc2.com/